昨日は青山景の自殺を知って、いろいろと考えさせられました。
初めて彼の名前を知っただろう人も多いでしょうし、どんな作品を描いてた人なのかな、と作品を新たに読む人もそれなりにいるでしょう。
ただ、自殺したことでそういった「死」についてのフィルターを通して読もうとするのなら、あまり期待する結果は得られない作家なのではと思います。彼の作品群から「それ」を嗅ぎ取ろうとするなら、おそらくどの作家からでも「それ」はかぎ取れるのではないかとすら感じるのです。
自殺した作家というと、そのことで名前がいっそう広がった作家の二人が山田花子とねこぢるでしょう。
とくに山田花子に関していえば、自殺する以前というのはお世辞にも売れている作家ではなく、それがQJの「消えたマンガ家」からの再評価と「それ」のフィルターをとおしての新規読者の獲得・・・という流れがあります。
山田花子のその生き様を知ってから作品を読んだ人が多かったのもその流れを加速させました。みんなが(言い方は悪いですが)、怖いものみたさと好奇心にサブカル的な言い訳をつけて、彼女の被害妄想が表出しまくっている作風を「自殺に追い込まれた人の作品」「精神を患う人の作品」としてしか眺めてなかったのではとも感じてしまいます。あの被害妄想の中には冷徹な客観視があるのですが、そこは前述の作風に覆い隠されて評価されていたのではないでしょうか。(余談ですが、福満しげゆきの一種独特なネチッこさも、どっかでどう曲がっていたら山田花子のような作風に至ってたんじゃないかと思ったりもします)。
さて、「消えたマンガ家」「自殺直前日記」のブレイクで山田花子が一躍注目を浴びていた96年、こんな本がひっそりと発売されています。
長期にわたる連載では、後半巻数に至るほど刷り部数が減っていくという関係上、後半の巻数の入手が困難になります。この「ハロー張りネズミ&ハリネズミ交遊録」は別巻ではなく24巻という巻数がきちんと振られていることもあり、正編23巻では中途巻セットになってしまうというのがなかなかややこしい。
またこの本もハリネズミシリーズが連載終了してからけっこうたった頃にぽつんと発売されたこともあり、ここまでそろえて全巻を持っている人はかなり少ないのではないでしょうか。
島耕作シリーズにおける「島耕作の優雅な日々」と同じような扱いですね。
内容はというと、当時のヤンマガ連載陣と弘兼さんの文字通り交遊録というか、あってみたときの印象が語られているのですが、これがなかなかに読ませます。
「すぎむらしんいちは大のソニー狂」
「有間しのぶは毎日オナニーだけはする」
「きうちかずひろの背中にはモンモンが入っている」
「楠みちはるはファミレスの回数券を集めたり、けっこうセコイ」
「木内一雅はソープランドのボーイをしていた」
といったように、ここでしか知れない情報が満載。まあ弘兼さんだからここまで書いても怒られなかった、というのもたしかにありますが・・・
そんななか、「神の悪フザケ」でデビューしたばかりの山田花子も、何の縁なのかこの交遊録に登場するのです。これが誠に、僕らが考えている山田花子象を裏切らないもので・・・。







それにしても、弘兼氏は似顔絵が抜群に上手いですね。特にこの目つき。僕らが写真で知る山田花子にそっくりで。このエピソードの初出は89年ではないかと推測ですが、ヤンマガに「神の悪フザケ」が連載されていた当時、亡くなる数年前です。
しかし、自殺した人、精神を病んだ人・・・というフィルターを抜きにしても、かなり稀有な、相当のコミュニケーション能力の欠如が傍目からもわかる人だったのかもしれません。なにしろ対談相手は間違いなく社交的でおしゃべりな弘兼氏なんですから・・・。氏も彼女を「緊張して黙っていた」といったさまでは表現しておらず、あまりに特徴すぎる新人として扱ってますが、これが表現できるギリギリだったのかもしれません。
しかしこれを見て「いかにも自殺に縁がありそうだ」などと考えるのは早計です。ぼくらは情報をすべて知った後から読み返している立場なので、そういう風に「読んで」いるからです。山田花子を何も知らない最近の若い子に見せて、彼女が自殺しそうに見える?ときいても、たぶん答えは陰性だと思うのです。
山田花子の消費のされ方が良くも悪くも上記のように偏ってしまったことは反省として持っておくべきかもしれません。青山景さんについても、個人的願望ですがちょっぴりそう思います。
なんか体のイイこといってて自分で自分が気持ち悪くなったので、いちまいくだらない画像をどうぞ。
- 2011/10/13(木) 23:05:42|
- こねた
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